人柱になってみましたw [その他のトピックス]
先日、またまた国税庁から差し押さえの通告をされてしまいました。
なにやら税金が未納なので、財産を差し押さえるとのことです。
困ったなー(棒)
もちろん、例の迷惑メッセージです。
私のスマホに送られてきました。
最近多いですよね。
他にも「不在だったために宅配便を持ち帰りました」とか。
皆さんのところにも頻繁に届いていることと思います。
国税庁ともあろう立派な機関が雑なショートメッセージで納税しろと言ってくるなんて、常識的に考えてあり得ないのですが、それでもやっぱり不安になる方も多いと思います。
そんなメッセージはサクッと削除してしまってよいのです。
でも、もしその先にある「ここをタップしてください」というところに触ってしまったら、果たしてどうなるのでしょうか?
気になるでしょ?
でも自分で試してみるのは怖いですよね?
それじゃ、センセーが皆さんに成り代わって試して差し上げましょう。
ということで、やってみました。
よい子はマネしないようにね(^^♪
まず最初のリンク(青い文字の部分)をタップすると、怪しいサイトに連れていかれ、以下のページが表示されました。
日本では使われない漢字で請求内容が書かれています。
なるほど、4万円を支払えということですね。
しかも期限は12月19日までですか。
このメッセージが送られてきたのは12月20日だったのですがw
さらにその下の「お支払いへ」をタップすると、以下の画面が表示されました。
なるほど、この画面で個人情報を入力させ、支払いページへ誘導するという仕組みですね。
ここまで見れば十分なので、終了させました。
これで手口はわかりましたね?
この場合、タップしただけでは何も起こりません。
個人情報や支払い情報を入力して、初めて先方(悪いやつ)にこちらの情報が渡ってしまうわけです。
ですから不用意にこちらの情報を入力しないようにだけ、くれぐれも気をつけましょうね。
相手はこちらのことがわかって詐欺メールを送ってくるわけではなく、でたらめに送り付けてくるだけなのですからね。
まあ、怪しいと思ったら、メールやメッセージはすぐに削除するようにしましょう。
心配なら教室にご相談くださいね。
ホワイトバランス [雑感]
デジタルカメラの用語に「ホワイトバランス」というのがあります。
カメラがご趣味の方には耳なじみがあると思います。
カメラで被写体を写すときに、白いものが白く写るように補正を行う機能のことをホワイトバランスといいます。
被写体は、太陽の光や蛍光灯などの光源からの光を反射して、目やレンズに写ります。
そのため光源の色が違えば、目に写る色も違って見えることになります。
人間の目はよくできていて、白いものは白と認識するため、どんな被写体であっても自然な色合いとしてとらえますが、カメラのような機械はそうはいきません。
雪原を写した写真が青っぽく写ったり、電球の下で撮影した料理がオレンジっぽく写ることがあるのはそのためです。
そこでホワイトバランスの調整が必要になります。
カメラには「オートホワイトバランス」という設定があり、とりあえずオートにしておけば自動調整してくれますが、補正が上手くいかないときには「晴天」や「曇天」「蛍光灯」「電球」などの中から手動で設定することになります。
同一の被写体なのに条件によって見え方が変わるなんて、おもしろいですね。
まるで人間の心のよう。
ひとつだけの事実なのに、眺める人によって見え方がまったく変わってしまうことがある。
人間もホワイトバランスの調整ができたらいいのに。
光源の設定を「自分」から「相手」に変えてみたら、違った見え方ができて、相手のことを少しは理解できるようになるかもしれませんね。
まあ人間なら少し修業を積むことで、そんな洞察力を身に付けられるようになるかもしれませんが、なかなか道は険しいですね。
ついつい自分の見え方を主張したりしたくなってしまいます。
主張とまではいかなくても、相手にわかってほしいと説明に説明を重ねてしまうことがありますよね?
………
あ、いけない。
沈黙は金
でしたね。
よくドラマとかで、登場人物の気持ちがすれ違う場面がありますね。
特に恋愛ドラマとかではよくある設定で、見ているこちらとしてはハラハラドキドキの連続だったりします。
主人公の言動の間(ま)が悪かったためにヒロインに誤解されてしまい、恋敵に奪われてしまう場面なんて「ああ、そうじゃないのに~」「彼が好きなのは彼女じゃなくてあなたなのよ~」なんて、つい見入ってしまいます。
あれって、ドラマだから成立するんですよね。
こちら側で見ている視聴者が楽屋裏まで含めて事情を分かっているからこそ、安心して、あるいは共感して楽しむことができるわけです。
でも現実の世界では、誤解によってねじれた人間関係はどこまで行ってもねじれたまま。
脚本家が最後に都合よく種明かしをしてくれることなんてありません。
切なく悲しい、そして残酷ですね。
小説ならエピローグで、映画ならエンドロールできれいに収めてくれるでしょうに、現実の人生ではお互いに誤解したまま、時には悲しみを抱きながら、時には憎しみを抱えながら、人生を終えるのです。
ボタンを掛け違えたまま、一生を離れ離れに暮らすことになった人だって星の数ほどいたでしょうし、この先もそうでしょう。
私自身もこれまでに、そんな思いをたくさんしてきています。
私より人生経験の長い教室の皆さんなら、なおさらかもしれませんね。
いつか機会があったら、どのようにしてその寂しさを乗り越えてきたのか、ご教授いただければと思います。
お酒でも飲みながら(苦いお酒になりそうですね)。
ちなみに今の私の境地では、こんなふうに受け止めようと努めています。
前提として、どんなに努力をしたところですべての人から受け入れられることなどあり得ません。
だからどんな人でも、職場など外側の世界ではそのようによそ行きの顔で振る舞っているでしょう。
そうやって仮面をかぶって、なるべく軋轢を生まないように過ごすのは、大人の知恵だと思います。
そりゃそうですよね。
みんながみんな、思っていることを我慢せずに口にし出したら、世の中大混乱(笑)
とは言え、人生のすべてを仮面をかぶって過ごすわけにはいきません。
だからせめて自分が大切に思う人の前では本音で語りたいし、誤解なく受け入れてほしいと願います。
たとえ内容的には受け入れがたい、理解しがたいことであったとしても、心情的には受け止めてほしい。
少なくとも邪気を捨てて、理解しようと耳を傾けてほしい。
どちらが正しいのかを競うのではなく、相手を理解し一致点を共に探ってほしい。
けれども前回書いたように、どんなに真心を込めて説明に説明を重ねたとしても、受け入れてもらえることは梅雨の晴れ間を探すぐらい難しいのかもしれません。
だから、こう思おうと思います。
自分の心の声に従って振る舞った結果が図らずも不調和を招いたときには、自分の中に不足だった部分はないか、不誠実だった部分はないかをまずは振り返ってみようと思います。
前回の件で言えば、パソコンの設定をするのに最善の努力をしたか?
手を抜いたりはしなかったか?
意地悪な気持ちや悪意からではなく(それが結果的に間違っていたとしても)善意から、相手のためを思ってしたことなのか?
その上で自分は精一杯やった、良心に照らして恥ずるところはないと胸を張れるのであれば、あとのことは相手に委ねてしまおうと思います。
人生でいちばん大切なことは、他人に合わせて波風を立てずに生きることではなく、自分の人生を生きることだと思うからです。
言い訳しながら生きるのにも疲れたしw
結果として誤解されたままであったとしても、いつかわかってもらえる日が来るかもしれないし、来ないかもしれません。
どっちでもいいや(笑)
相手の顔色を気にせずにはいられない私にとってはなかなか困難な道ではありますが、来年は還暦を迎えます。
この世を去る時に後悔しないためにも、自分の人生のハンドルは自分でしっかり握っていなければと思います。
この先の人生が、たとえ願ったものとは違ったものになったとしても、人のせいにすることなく、「でもこれが自分で選んだ道だから仕方なかった。ほかに道はなかった。」と納得できるように生きていこうと、様々な経験を経て思いを強くしている今日この頃です。
沈黙すること [雑感]
今年も押し迫ってきました。
振り返ってみて、実に様々な出来事があった一年でした。
その中でひとつ、自分にとって非常に感銘を受けた出来事がありました。
あまり愉快な出来事ではなかったし、書かないでおこうかとも思ったのですが、あれからずいぶん時間が過ぎたし、このブログを読む人もそう多くはないでしょうから(笑)、自分の気持ちを整理するためにも記しておこうと思います。
もう半年以上も前のことです。
ある飛び込みのお客様からパソコンの設定を依頼されました。
ご依頼を受けたAというソフトの設定自体はいつも行っている内容で、特に難しくもないものでした。
ところがその方のパソコンにはBというメールソフトが入っており、それが邪魔をして設定を完了することができません。
Aの設定をするためにはBのソフトを若干操作しなければなりませんでした。
そこでAの設定を完了するためにいったんBを操作し、無事Aの設定を完了してパソコンを引き渡しました。
ところがその後、そのパソコンでメールの送受信ができないというご連絡を頂きました。パソコンをお持ちいただき確認してみると、確かにそのようです。
生徒さんにはお詫びをし、もう一度パソコンをお預かりしました。
それからあれこれ調べてみると、以下のことがわかりました。
・Bのソフトが入っているパソコンでAの設定をすると不具合が発生する可能性がある。
・ソフトを提供しているマイクロソフト社ではその事実を認識しており、最新版のソフトではそのような不具合が起きないように仕様が変更されている。
その生徒さんのパソコンに入っていたソフトは旧バージョンだったために、そのような不具合が生じてしまったようです。
そこで上記のことをご説明した上で、メールソフトの不具合に対応し、メールの送受信に関しては以前の通りにできるようにすることができました。
ただ、週末にパソコンをお預かりすることになってしまい、重要なメールのやり取りができずに不便な思いをしたということで、散々のお叱りを頂きました。
「Aの設定を頼んだだけなのにBまで勝手にいじられて、非常に迷惑した」
「おたくが余計な操作をしたために、パソコンの調子が悪くなってしまった」
「こんなことならおたくになんか頼まなければよかった」
それに対して私は、技術的な説明をできる限りていねいにした上で、不十分な状態でパソコンをお引渡ししたことをお詫びしました。
そもそもその方はあまりパソコンには詳しくない方なので、私の説明に対しても、ずいぶん的外れなクレームを付けられましたが、それを申し上げたところで火に油を注ぐだけになるのは明らかでしたので、「とにかく申し訳ありませんでした」と頭を下げ続けるほかはありませんでした。
最後は「どうせ心の中では私のことを馬鹿にしているんだろう」と言い残して、帰って行かれました。
事のあらましはざっとこんな感じです。
この出来事は、私の心に強い感銘を与えました。
まずパソコンの設定に関して、自分の対応を振り返ってみました。
今、もう一度時間をさかのぼってパソコンをお預かりしたとして、別の対応ができただろうかと考えてみました。
それでも結局は同じ対応をしただろうと思います。
お預かりした時点では、そのような不具合が発生することは(私には)予見できませんでしたので、同じ操作をしただろうと思います。
もちろんパソコン全般に関する私のスキルがもっと優れたものであれば別ですが、今の私の「町のパソコン教室の先生」のレベルでは、それはわかりませんでした。
〈いろは教室〉には、実に様々なご相談が持ち込まれます。
教室でお教えている内容から大きくかけ離れたことやまったく取り扱っていないことであることも珍しくありません。
そして私は、基本的にはどれもお断りすることはありません。
それはこういうことからです。
1つは、たいていのご相談に対して対応できるという自負があるからです。
たとえ自分が知らない内容であっても、調べられるものであれば調べて、ご相談者のお役に立ちたいと思っていますし、またそうしてきたつもりです。
もちろん出来ないこと、わからないことに関しては、きちんとそのようにご説明させていただいています。
出来るかどうかわからないことをお引き受けすることにはリスクが伴います。
やってみてできなかった場合、その旨をご説明したときにガッカリされたり教室の評判を落としてしまうことにもなりかねません。
そうであれば、自分の守備範囲から外れる部分には手を出さない方が賢明なのかもしれません。
野球でも、難しいゴロが転がった時に、無理せずに見送れば「ヒット」と記録されますが、なんとかアウトにしようと飛びついて球をはじいたりすれば「エラー」という不名誉な記録がついてしまうかもしれません。
私はそれでも、できれば飛びついていきたいという考えでいます。
そうすることで喜んでくださる方がいらっしゃるのであれば、私もまた喜んでそうしたいと思うのです。
ただしそのためには、惜しくも球をはじいたときに「ナイスッ」とか「惜しい!」とか「ありがとう」と声をかけてくれる信頼できる仲間がチームメイトであることが必須です。
幸いにして教室に通ってくださる生徒さんたちのほとんどは、私のことを信頼してくださっています。
だからこそ私も臆せず難しい打球に飛びつくことができますし、仮にそれでエラーしてしまっても(滅多にありませんけれどね)、事情を説明すれば気持ちよく納得していただけているのです。
この出来事があってから、パソコンの設定を承る時には念書のようなもの(最善を尽くしますが不具合が発生する可能性もありますのような)を書いていただかなければならないかなと、少々暗い気持ちで過ごしもしましたが、今のところは従来通りに対応しています。
あくまでも生徒さんとの信頼関係を軸にして、お付き合いさせていただきたいと思っています。
件のお客様についても、ほかの生徒さんと同様に満足していただこうと精一杯のサービスを提供しました。
料金もきわめてリーズナブルなものであったと思いますし、私は作業のためにかなりの時間を費やしました。
ご依頼内容(Aというソフトの動作設定)については、完璧にできていました。
その上で不可抗力的に発生してしまった不具合についても、ほぼ現状を回復することができました。
そして丁寧に丁寧に、心を込めてご説明させていただいたのですが、その結果は悲惨なものでした。
少し前まで私は、きちんと向き合って心を込めて話せば、気持ちはきっと伝わる、そう思っていました。
果たして、人と人とは真に理解し合うことができるものでしょうか。
それはきっと不可能なんだろうと、今では強く思っています。
争いごとやいじめも、世の中からなくなることはないでしょう。
人が二人以上いれば、必ずそこには何らかの軋轢が生じます。
芥川龍之介に「藪の中」という短編小説があります。
そこで語られているように、世の中に起こる事実は一つでも、真実は人の数だけあります。
事実を眺めるのは人間で、その人間のフィルターを通して物事を理解するのですから、当然です。
ひどい時には一つの事実がまったく真逆に解釈されることもあります。
善意(のつもり)で行ったことが悪く取られて非難されたり罵られたり。
「いやいや、そんなつもりではないんですよ」
相手に自分の気持ちを分かってほしくて一生懸命説明するのですが、相手は理解してくれるどころか、ますます自分の真意とは違う受け取り方をして、状況は悪化の一途をたどる…。
でも、それは無理もないことなのだと思います。
人と人とがつながるのに、「言葉」というものは非常に脆弱で不完全な道具なのですから。
言葉が意思疎通のツールとしてどうにかこうにか役立つことができるのは、特定の条件の下でのみです。
すなわち、伝えようとする人と受け手側の間に信頼関係がある時だけです。
たとえばここに愛し合う二人がいて、一方が他方を傷つけてしまった。
でもこちらは傷つける意図などまったくなく、むしろ相手のことを大切に思っている。
けれども些細な行き違いから、険悪な状態になってしまった。
そんな時、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、言葉を尽くして自らを説明しようとするでしょう。
でもその試みが成功するのは、「この人の言動によって私は傷ついたけれど、この人が私を愛してくれているのは間違いない」と信じている場合のみです。
そのときには、話し合いの関心は、相手の言葉ではなく相手の心に向かい、涙と感謝で終わるのだと思います。
誤解があったのならそれは解け、以前よりも美しい結びつきが強まるでしょう。
でもほとんどの場合、自分を理解してもらおうという試みは失敗に終わります。
議論好きで自分が正しいと信じて疑わない、私を含めた現代の人たちは、互いに相手の言葉の揚げ足を取り、巧みに言葉をすり替え、なんとか相手を打ち負かそうとするのです。
でも相手を打ち負かそうとするのは、必ずしも自分が相手の上に立ちたいという欲望からではないのかもしれません。
「自分が正しい」あるいは「相手が間違っている」「相手に悪意がある」ということを純粋に信じていて、自分が傷つけられたことに純粋な怒りを感じているからなのかもしれません。
たとえ相手の側に傷つける意図など全くなかったとしても、あるいは相手の気持ちを真逆にとっているのだとしても。
そうであるとしたら、私たちはどのようにして、どのような態度で生きていくのが正しいのでしょう。
正しいとまでは行かなくても、賢い生き方なのでしょう。
沈黙は金
今の私の境地では、この言葉に勝るものはないような気がしています。
もしこの世が調和した世界であれば、善意や好意は感謝と涙で受け取られるでしょうが、残念ながらこの世の中はそうはできていないようなのですから。
無為に言葉を重ねて溝を深めるのであれば、無言を貫いたまま相手の幸せを願う方がはるかに清い生き方のような気がします。
とまあ、人が分かり合えないということを託ってきたわけですが、それでは「自分が正しく理解される」ことに耐えられる人はどれほどいるのでしょう。
少なくとも私は、正しく理解されて平気なほど清らかな心を持っていません。
ほどほどに誤解されているからこそ、「センセーはいい人ね」と言ってもらえるのだと思います(笑)
そう考えると、正しく理解されないということは、私のような未熟者にとっては案外恵まれたことなのかもしれませんね。