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災い転じて? [雑感]

前回のブログは残念な結末で終わってしまいましたが、実はそのあと急転直下の顛末がありました。




翌朝はさすがにすっかり落ち込んでいました。

先方から教えられた名前も連絡先もインチキだったため、こちらから相手を割り出す術はありません。

大きな事故でもないので警察に相談しても取り合ってもらえないでしょう。


ああ、泣き寝入りかあ。

自転車の修理代、損しちゃったなあ。

でも怪我しなくてよかったな。


そんなふうに自分に言い聞かせていました。


すると10時ごろ、私のスマホに見知らぬ電話番号から着信がありました。

怪訝に思って出てみると

「昨日事故を起こした者です…」

という声が。


最初は信じられませんでした。

ウソの連絡先を伝えてくるような悪人がわざわざ連絡してくるとは一体どういうことなのだろう…と、状況がうまく理解できずにいました。


とりあえず話を聞いてみたところ、概ね次のような説明をされました。

・事故を起こして気が動転してしまった

・以前事故を起こした時に相手方から脅迫のようなことをされたことがあり、怖くなってウソをついてしまった

・でも事故を起こしたことと嘘をついたことが怖くなって夜も寝られなかった


だいたいこんな感じでした。

もちろん、どれもこれも嘘をついてよい理由には全くならないんですけどね。


それで改めて相手の(本当の)氏名と連絡先を聞き、月曜日に揃って泉警察署に届け出に行くことにしました。



月曜日。

教室の近くで待ち合わせて、先方の車に乗って警察に行きました。


警察では二人の警察官の方が対応してくださいました。

先日の交番の若い巡査とは雲泥の差、とても親切で丁寧な対応をしていただきました。

(この間のお巡りさんはなんだったんだ。思い出しても腹が立つw)

事故のあらましを説明し処理していただき、あとは当事者同士の話となりました。

特に怪我をしたわけでもなく、自転車が少々ダメージを受けた程度でしたので、その日に持参されていたお見舞金を受け取って、それで終わりにしました。


その日の気分は自分でも不思議な感じでした。


事故に遭ったのは不幸な出来事でした。

でもそれ以上に悲しかったのは、相手を信じて裏切られたということでした。

人間はとても弱い生き物だということはよく知っているつもりです。

60年も生きてきましたからね。

自分のことを振り返っても、何か大きな失敗をしたときに、誤魔化したくなったり誰かのせいにしたくなることはあります。

だから相手の方がつい逃げてしまおうと思ったのも(よくないことではあるけれど)理解することはできます。

そして思うのは、いったん逃げてしまったあと、もう一度引き返すのにどれだけ勇気が要っただろうということです。


自分の過ちを認めるのは、そしてそれを正すのは、時にとても勇気がいることだと思います。

もちろん今回、相手の方が連絡してきたのは「正しいことをする勇気」というより「悪いことをしたことに対する罪悪感」からだったかもしれません。

それでも私は、自らの非を認めて詫びる相手をそれ以上責める気にはなれません。

それよりはむしろ、相手の方に対して親近感のようなものを感じてしまいました。

根はきっと良い人なんだろうなあ、違う出会い方をしていたら親しくお付き合いができたかも…などと考えてしまいました。

まあ、向こうは「そんなのごめんだよ」と思うでしょうけどねw

事故に遭ってこんな感じになるなんて、ひょっとしたら気づかないうちに頭を打っていたのかもしれませんね(笑)


まあとにかく、禍を転じて福と為すというのではありませんが、最後の最後はよい終わり方ができてよかったなと思っています。


やっぱりお人好し?

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ホワイトバランス [雑感]

デジタルカメラの用語に「ホワイトバランス」というのがあります。

カメラがご趣味の方には耳なじみがあると思います。

カメラで被写体を写すときに、白いものが白く写るように補正を行う機能のことをホワイトバランスといいます。

被写体は、太陽の光や蛍光灯などの光源からの光を反射して、目やレンズに写ります。

そのため光源の色が違えば、目に写る色も違って見えることになります。

人間の目はよくできていて、白いものは白と認識するため、どんな被写体であっても自然な色合いとしてとらえますが、カメラのような機械はそうはいきません。

雪原を写した写真が青っぽく写ったり、電球の下で撮影した料理がオレンジっぽく写ることがあるのはそのためです。

そこでホワイトバランスの調整が必要になります。

カメラには「オートホワイトバランス」という設定があり、とりあえずオートにしておけば自動調整してくれますが、補正が上手くいかないときには「晴天」や「曇天」「蛍光灯」「電球」などの中から手動で設定することになります。


同一の被写体なのに条件によって見え方が変わるなんて、おもしろいですね。

まるで人間の心のよう。

ひとつだけの事実なのに、眺める人によって見え方がまったく変わってしまうことがある。

人間もホワイトバランスの調整ができたらいいのに。

光源の設定を「自分」から「相手」に変えてみたら、違った見え方ができて、相手のことを少しは理解できるようになるかもしれませんね。

まあ人間なら少し修業を積むことで、そんな洞察力を身に付けられるようになるかもしれませんが、なかなか道は険しいですね。

ついつい自分の見え方を主張したりしたくなってしまいます。

主張とまではいかなくても、相手にわかってほしいと説明に説明を重ねてしまうことがありますよね?


………


あ、いけない。


沈黙は金


でしたね。


よくドラマとかで、登場人物の気持ちがすれ違う場面がありますね。

特に恋愛ドラマとかではよくある設定で、見ているこちらとしてはハラハラドキドキの連続だったりします。

主人公の言動の間(ま)が悪かったためにヒロインに誤解されてしまい、恋敵に奪われてしまう場面なんて「ああ、そうじゃないのに~」「彼が好きなのは彼女じゃなくてあなたなのよ~」なんて、つい見入ってしまいます。


あれって、ドラマだから成立するんですよね。

こちら側で見ている視聴者が楽屋裏まで含めて事情を分かっているからこそ、安心して、あるいは共感して楽しむことができるわけです。

でも現実の世界では、誤解によってねじれた人間関係はどこまで行ってもねじれたまま。

脚本家が最後に都合よく種明かしをしてくれることなんてありません。


切なく悲しい、そして残酷ですね。

小説ならエピローグで、映画ならエンドロールできれいに収めてくれるでしょうに、現実の人生ではお互いに誤解したまま、時には悲しみを抱きながら、時には憎しみを抱えながら、人生を終えるのです。

ボタンを掛け違えたまま、一生を離れ離れに暮らすことになった人だって星の数ほどいたでしょうし、この先もそうでしょう。


私自身もこれまでに、そんな思いをたくさんしてきています。

私より人生経験の長い教室の皆さんなら、なおさらかもしれませんね。

いつか機会があったら、どのようにしてその寂しさを乗り越えてきたのか、ご教授いただければと思います。

お酒でも飲みながら(苦いお酒になりそうですね)。


ちなみに今の私の境地では、こんなふうに受け止めようと努めています。


前提として、どんなに努力をしたところですべての人から受け入れられることなどあり得ません。

だからどんな人でも、職場など外側の世界ではそのようによそ行きの顔で振る舞っているでしょう。

そうやって仮面をかぶって、なるべく軋轢を生まないように過ごすのは、大人の知恵だと思います。

そりゃそうですよね。

みんながみんな、思っていることを我慢せずに口にし出したら、世の中大混乱(笑)


とは言え、人生のすべてを仮面をかぶって過ごすわけにはいきません。

だからせめて自分が大切に思う人の前では本音で語りたいし、誤解なく受け入れてほしいと願います。

たとえ内容的には受け入れがたい、理解しがたいことであったとしても、心情的には受け止めてほしい。

少なくとも邪気を捨てて、理解しようと耳を傾けてほしい。

どちらが正しいのかを競うのではなく、相手を理解し一致点を共に探ってほしい。


けれども前回書いたように、どんなに真心を込めて説明に説明を重ねたとしても、受け入れてもらえることは梅雨の晴れ間を探すぐらい難しいのかもしれません。


だから、こう思おうと思います。


自分の心の声に従って振る舞った結果が図らずも不調和を招いたときには、自分の中に不足だった部分はないか、不誠実だった部分はないかをまずは振り返ってみようと思います。

前回の件で言えば、パソコンの設定をするのに最善の努力をしたか?

手を抜いたりはしなかったか?

意地悪な気持ちや悪意からではなく(それが結果的に間違っていたとしても)善意から、相手のためを思ってしたことなのか?


その上で自分は精一杯やった、良心に照らして恥ずるところはないと胸を張れるのであれば、あとのことは相手に委ねてしまおうと思います。

人生でいちばん大切なことは、他人に合わせて波風を立てずに生きることではなく、自分の人生を生きることだと思うからです。

言い訳しながら生きるのにも疲れたしw

結果として誤解されたままであったとしても、いつかわかってもらえる日が来るかもしれないし、来ないかもしれません。

どっちでもいいや(笑)


相手の顔色を気にせずにはいられない私にとってはなかなか困難な道ではありますが、来年は還暦を迎えます。

この世を去る時に後悔しないためにも、自分の人生のハンドルは自分でしっかり握っていなければと思います。

この先の人生が、たとえ願ったものとは違ったものになったとしても、人のせいにすることなく、「でもこれが自分で選んだ道だから仕方なかった。ほかに道はなかった。」と納得できるように生きていこうと、様々な経験を経て思いを強くしている今日この頃です。

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沈黙すること [雑感]

今年も押し迫ってきました。

振り返ってみて、実に様々な出来事があった一年でした。

その中でひとつ、自分にとって非常に感銘を受けた出来事がありました。

あまり愉快な出来事ではなかったし、書かないでおこうかとも思ったのですが、あれからずいぶん時間が過ぎたし、このブログを読む人もそう多くはないでしょうから(笑)、自分の気持ちを整理するためにも記しておこうと思います。



もう半年以上も前のことです。

ある飛び込みのお客様からパソコンの設定を依頼されました。

ご依頼を受けたAというソフトの設定自体はいつも行っている内容で、特に難しくもないものでした。

ところがその方のパソコンにはBというメールソフトが入っており、それが邪魔をして設定を完了することができません。

Aの設定をするためにはBのソフトを若干操作しなければなりませんでした。

そこでAの設定を完了するためにいったんBを操作し、無事Aの設定を完了してパソコンを引き渡しました。


ところがその後、そのパソコンでメールの送受信ができないというご連絡を頂きました。パソコンをお持ちいただき確認してみると、確かにそのようです。

生徒さんにはお詫びをし、もう一度パソコンをお預かりしました。


それからあれこれ調べてみると、以下のことがわかりました。

・Bのソフトが入っているパソコンでAの設定をすると不具合が発生する可能性がある。

・ソフトを提供しているマイクロソフト社ではその事実を認識しており、最新版のソフトではそのような不具合が起きないように仕様が変更されている。


その生徒さんのパソコンに入っていたソフトは旧バージョンだったために、そのような不具合が生じてしまったようです。


そこで上記のことをご説明した上で、メールソフトの不具合に対応し、メールの送受信に関しては以前の通りにできるようにすることができました。


ただ、週末にパソコンをお預かりすることになってしまい、重要なメールのやり取りができずに不便な思いをしたということで、散々のお叱りを頂きました。


「Aの設定を頼んだだけなのにBまで勝手にいじられて、非常に迷惑した」

「おたくが余計な操作をしたために、パソコンの調子が悪くなってしまった」

「こんなことならおたくになんか頼まなければよかった」


それに対して私は、技術的な説明をできる限りていねいにした上で、不十分な状態でパソコンをお引渡ししたことをお詫びしました。

そもそもその方はあまりパソコンには詳しくない方なので、私の説明に対しても、ずいぶん的外れなクレームを付けられましたが、それを申し上げたところで火に油を注ぐだけになるのは明らかでしたので、「とにかく申し訳ありませんでした」と頭を下げ続けるほかはありませんでした。

最後は「どうせ心の中では私のことを馬鹿にしているんだろう」と言い残して、帰って行かれました。


事のあらましはざっとこんな感じです。


この出来事は、私の心に強い感銘を与えました。


まずパソコンの設定に関して、自分の対応を振り返ってみました。

今、もう一度時間をさかのぼってパソコンをお預かりしたとして、別の対応ができただろうかと考えてみました。

それでも結局は同じ対応をしただろうと思います。

お預かりした時点では、そのような不具合が発生することは(私には)予見できませんでしたので、同じ操作をしただろうと思います。

もちろんパソコン全般に関する私のスキルがもっと優れたものであれば別ですが、今の私の「町のパソコン教室の先生」のレベルでは、それはわかりませんでした。


〈いろは教室〉には、実に様々なご相談が持ち込まれます。

教室でお教えている内容から大きくかけ離れたことやまったく取り扱っていないことであることも珍しくありません。

そして私は、基本的にはどれもお断りすることはありません。

それはこういうことからです。

1つは、たいていのご相談に対して対応できるという自負があるからです。

たとえ自分が知らない内容であっても、調べられるものであれば調べて、ご相談者のお役に立ちたいと思っていますし、またそうしてきたつもりです。

もちろん出来ないこと、わからないことに関しては、きちんとそのようにご説明させていただいています。


出来るかどうかわからないことをお引き受けすることにはリスクが伴います。

やってみてできなかった場合、その旨をご説明したときにガッカリされたり教室の評判を落としてしまうことにもなりかねません。

そうであれば、自分の守備範囲から外れる部分には手を出さない方が賢明なのかもしれません。

野球でも、難しいゴロが転がった時に、無理せずに見送れば「ヒット」と記録されますが、なんとかアウトにしようと飛びついて球をはじいたりすれば「エラー」という不名誉な記録がついてしまうかもしれません。

私はそれでも、できれば飛びついていきたいという考えでいます。

そうすることで喜んでくださる方がいらっしゃるのであれば、私もまた喜んでそうしたいと思うのです。


ただしそのためには、惜しくも球をはじいたときに「ナイスッ」とか「惜しい!」とか「ありがとう」と声をかけてくれる信頼できる仲間がチームメイトであることが必須です。


幸いにして教室に通ってくださる生徒さんたちのほとんどは、私のことを信頼してくださっています。

だからこそ私も臆せず難しい打球に飛びつくことができますし、仮にそれでエラーしてしまっても(滅多にありませんけれどね)、事情を説明すれば気持ちよく納得していただけているのです。



この出来事があってから、パソコンの設定を承る時には念書のようなもの(最善を尽くしますが不具合が発生する可能性もありますのような)を書いていただかなければならないかなと、少々暗い気持ちで過ごしもしましたが、今のところは従来通りに対応しています。

あくまでも生徒さんとの信頼関係を軸にして、お付き合いさせていただきたいと思っています。


件のお客様についても、ほかの生徒さんと同様に満足していただこうと精一杯のサービスを提供しました。

料金もきわめてリーズナブルなものであったと思いますし、私は作業のためにかなりの時間を費やしました。

ご依頼内容(Aというソフトの動作設定)については、完璧にできていました。

その上で不可抗力的に発生してしまった不具合についても、ほぼ現状を回復することができました。

そして丁寧に丁寧に、心を込めてご説明させていただいたのですが、その結果は悲惨なものでした。


少し前まで私は、きちんと向き合って心を込めて話せば、気持ちはきっと伝わる、そう思っていました。


果たして、人と人とは真に理解し合うことができるものでしょうか。

それはきっと不可能なんだろうと、今では強く思っています。

争いごとやいじめも、世の中からなくなることはないでしょう。

人が二人以上いれば、必ずそこには何らかの軋轢が生じます。


芥川龍之介に「藪の中」という短編小説があります。

そこで語られているように、世の中に起こる事実は一つでも、真実は人の数だけあります。

事実を眺めるのは人間で、その人間のフィルターを通して物事を理解するのですから、当然です。

ひどい時には一つの事実がまったく真逆に解釈されることもあります。

善意(のつもり)で行ったことが悪く取られて非難されたり罵られたり。

「いやいや、そんなつもりではないんですよ」

相手に自分の気持ちを分かってほしくて一生懸命説明するのですが、相手は理解してくれるどころか、ますます自分の真意とは違う受け取り方をして、状況は悪化の一途をたどる…。

でも、それは無理もないことなのだと思います。

人と人とがつながるのに、「言葉」というものは非常に脆弱で不完全な道具なのですから。

言葉が意思疎通のツールとしてどうにかこうにか役立つことができるのは、特定の条件の下でのみです。

すなわち、伝えようとする人と受け手側の間に信頼関係がある時だけです。

たとえばここに愛し合う二人がいて、一方が他方を傷つけてしまった。

でもこちらは傷つける意図などまったくなく、むしろ相手のことを大切に思っている。

けれども些細な行き違いから、険悪な状態になってしまった。

そんな時、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、言葉を尽くして自らを説明しようとするでしょう。

でもその試みが成功するのは、「この人の言動によって私は傷ついたけれど、この人が私を愛してくれているのは間違いない」と信じている場合のみです。

そのときには、話し合いの関心は、相手の言葉ではなく相手の心に向かい、涙と感謝で終わるのだと思います。

誤解があったのならそれは解け、以前よりも美しい結びつきが強まるでしょう。


でもほとんどの場合、自分を理解してもらおうという試みは失敗に終わります。

議論好きで自分が正しいと信じて疑わない、私を含めた現代の人たちは、互いに相手の言葉の揚げ足を取り、巧みに言葉をすり替え、なんとか相手を打ち負かそうとするのです。


でも相手を打ち負かそうとするのは、必ずしも自分が相手の上に立ちたいという欲望からではないのかもしれません。

「自分が正しい」あるいは「相手が間違っている」「相手に悪意がある」ということを純粋に信じていて、自分が傷つけられたことに純粋な怒りを感じているからなのかもしれません。

たとえ相手の側に傷つける意図など全くなかったとしても、あるいは相手の気持ちを真逆にとっているのだとしても。


そうであるとしたら、私たちはどのようにして、どのような態度で生きていくのが正しいのでしょう。

正しいとまでは行かなくても、賢い生き方なのでしょう。


沈黙は金


今の私の境地では、この言葉に勝るものはないような気がしています。

もしこの世が調和した世界であれば、善意や好意は感謝と涙で受け取られるでしょうが、残念ながらこの世の中はそうはできていないようなのですから。

無為に言葉を重ねて溝を深めるのであれば、無言を貫いたまま相手の幸せを願う方がはるかに清い生き方のような気がします。


とまあ、人が分かり合えないということを託ってきたわけですが、それでは「自分が正しく理解される」ことに耐えられる人はどれほどいるのでしょう。

少なくとも私は、正しく理解されて平気なほど清らかな心を持っていません。

ほどほどに誤解されているからこそ、「センセーはいい人ね」と言ってもらえるのだと思います(笑)

そう考えると、正しく理解されないということは、私のような未熟者にとっては案外恵まれたことなのかもしれませんね。

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先生とセンセー [雑感]

久々の更新となってしまいました (^^)


先日、ある生徒さんからこんなことを言われました。

「センセー、パソコンを新しくしたらすっかり操作がわからなくなっちゃいました。
以前のパソコンは操作が簡単だったのに、新しいのはダメねー。
どんどん変わっちゃって、私たちの世代にはついていけないわー」


ふむふむ。

さてその方のパソコンですが、機種そのものは変わったものの、中に入っているソフトは以前と同じ「Windows 10」。

つまり以前のパソコンと実は全く同じものなのです。

ワードやエクセルも、バージョンが新しくなったためデザインは少し変わりましたが、配置や機能は以前とほとんど変わっていません。

変わったところと言えば本体の色と一部のキーの配列が少々違うぐらい。

つまり、パソコンが変わったので操作が難しくなったと感じるのは、申し訳ありませんがその方の勘違いだったんですね。


とは言え、お気持ちはわからないでもありません。
物事がうまく行かないとき、人は誰でもどこか自分以外のところへ原因を求めたくなるものです。

もちろん私自身も例外ではありません。

それで普段でしたら、「ああ確かにそうですね~」ぐらいで話を流すのですが、その方は教室の生徒さんの中でもとりわけ理解力が高くお話の分かる方。
しかも非常に熱心で向上心のある方でもあります。

それで私も、いつになく「きちんと教えてあげたい」と思ってしまったんですね。


それでつい、

「いやいや、それはパソコンのせいではないんですよ…」

と言いかけました。

その後には続けて、パソコンの仕組みやハードとソフトの関係、パソコンを使いこなすための心構えのようなことまでお話しして差し上げるつもりでした。

(それは全くの親切心から、もしくはパソコンのインストラクターとしての自負の気持ちからでした。)

でも結局、それをお話しすることはできませんでした。

なぜなら、上の言葉を言いかけたところで


「パソコンのせいでないなら、(できないのは)私のせいということですね?」


と言われてしまったからです。

少しムッとされたように感じました。


正直、「しまった!」と思いました。

ご本人のプライドを傷つけてしまったと反省しましたが、もはや後の祭り。

その後はちょっと気まずい時間が流れました。



教室の生徒さんとパソコン教室のセンセーでは、知識や経験が違うのは当たり前(だから習いにいらっしゃるわけですしね)。

ですからインストラクターである私が生徒さんを、そのスキルの未熟さゆえに笑うようなことは絶対にあり得ません。


それからもう一つ。

パソコン教室の「先生」になったからと言って、誰もが優れた教え手であるわけではありません。

人の価値はその肩書で決まるわけでなく、知識や経験の量のみならずその人の姿勢や在り様によって評価されたり尊敬されたりするのだと思います。

どんなに「私は先生でござい」と胸を張ったところで、中身が伴わなければ誰も教室に来てはくれないでしょう。

私が自分のことを「センセー」とおちゃらけて呼ぶのは、「先生」なんて呼ばれるのが恥ずかしいからなんですね。

先生なんてエラそうだし、そんなに立派な者でもないですしね。

教室の生徒さんとは、先生と生徒さんというよりも、共にパソコンを趣味に持つ仲間同士、ただ僕の方がちょっとだけ先を行っている先輩、横並びの関係だといつも思っています。


逆にそう思えばこそ、今回はついつい力が入ってしまったのかもしれません。

その生徒さんの未熟さや勘違いを笑うつもりは端(はな)からありません。

僕もまた、かつては初心者でしたから。

ただ僕が歩んできた過程を少しでも参考にしてもらえたらと思っただけでした。

でもそれをうまくお伝え出来なかったのは、やはり僕自身が未熟であったからだと反省しています。


やっぱり僕は、いつまでたっても「センセー」なんだなと、改めて思いました。

でも、それでよいとも思っています。

どこまで行っても発展途上。
でも歩みを止めず、進み続けていきたいなと思っていますよ。



ちなみに件の生徒さんとは、その後も楽しく学び合っています。

で、次はもっと上手に、僕の知っていることをお伝え出来ればなあと、密かに機会をうかがっています[わーい(嬉しい顔)]

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大人になってもw [雑感]

ふと気が付いたらすでに2月も第1週が終わってしまいました。

早いものですね。

このブログも1月は一度も更新しないまま来てしまいました。

サボったからと言って誰にも叱られないわけで、そう考えると、こまめにブログの更新をしている皆さんって、きっと子供の頃も夏休みの宿題とか、きちんとやっていたんだろうなと想像します。

私なんかは小学生の時分、毎年8月31日には半泣き状態でしたからね。

こっちがべそをかきながら宿題をやっつけている傍らで、父はビールを飲みながらテレビでプロ野球観戦。

ああ、早く大人になってダラダラ過ごしたい…[るんるん]

と、横目で父をにらみながら思ったものでしたが、いざ大人になったらそれはそれで、今度はお子様に気を遣わなければならず、人生思ったようにはいかないものだなあと思ったりしてますよ[わーい(嬉しい顔)]


さて、明日から頑張ろっと(なんてね)


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I feel fine [雑感]

今日は朝からよい天気です。
いつものように家からぶらぶら歩いて、10時前に教室に着きました。

なんだか、今朝はいつになくよい気分。
途中で眺めてきた桜のせいかな?
sakura.jpg

と、よくよく自分の心の中を振り返ってみて、気づきました。

昨日、新しい元号が発表されたからだなって。


令和

人々が心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ


なんだか胸が熱くなりますね。

もうすぐ幕を開ける新しい時代に、いろは教室も少しでもお役に立てればと願ってやみません。

残り僅かな平成の時代ですが、この平和な時代に生きていられることに、そしてそのために尽力してくださっているすべての人々に感謝しながら、悔いのない日々を過ごしていきたいと思います。

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1年の終わりに思うこと [雑感]

今年も残すところ、あと2日となりました。
 
2015年も、おかげさまで多くの生徒さんと教室で楽しく学び合うことができました。
 
教室をご利用いただいた生徒さんには、改めてお礼を申し上げます。

学び合うと書きました。

教室を訪れる皆さんはもちろん、パソコンやスマホを習いにいらっしゃるわけで、私もそれにお応えするわけですが、一方で皆さんから教えられることもたくさんあります。
 
インストラクターとしての技術的な点で言えば、皆さんがどんなことを疑問に思うのか、どんな点で躓きやすいのか、講師の教え方やテキストの内容でわかりにくい点がどこなのか等々、生徒さんからのフィードバックがあるおかげで、その都度少しずつ改善することができます。
 
これは「人に教える」ということを生業とする私にとって、大きな学びです。

 
教室をご利用される生徒さんの大半は、私よりも年長の方たちです。
 
授業中には、パソコンとは直接関係のないおしゃべりもたくさんありますが、人生の先輩方のされるお話は、未熟な私にとって宝の山です。
 
そういう意味でも、皆さんと教室で過ごす時間は、私に多くの学びの機会を与えてくれます。

来年もまた、皆さんに少しでもお役に立てる教室であることを目指すとともに、私自身も一歩ずつ前進できる年にしたいと願っています。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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今朝のニュース [雑感]

今日の新聞にこんな記事が出ていました。

難民申請、偽装を指南…ネパール人を摘発

記事によれば、申請してから6か月を過ぎれば日本で正式に就労することができ、却下されても異議申し立てや最新性をすることで、ずっと働き続けることができるとあります。

そしてその理由は「申請中の外国の方の生活を支えるため」だそうです。

いかにも日本的な法律であると、私は感じました。

この法律は基本的に、人が正直であることを前提にしているのでしょう。

私は法律には明るくありませんが、私たち日本人の社会は、概ねそのような人々の善意を信頼し合って成り立っているので、法律もまた、そのように緩やかな、言い方を変えれば甘い部分があるのかもしれません。

最初から法の網の目をすり抜けて悪事を働いてやろう・・・という輩については想定外なのかもしれませんね。

 

上の記事は

「摘発を機に制度の見直しを求める声が高まりそうだ。」

という言葉で締めくくられています。

世界が狭くなり、様々な価値観を持った人々が隣り合って暮らす現代の世の中では、あらゆる事態を想定してルールを厳しくしなければならないのは、やむを得ないことなのかもしれませんね。

ルールは最小限にとどめて、その隙間をお互いの配慮や思いやりで埋められるような世の中であってほしいとは願うのですが。

 

いろは教室でも「受講規約」というルールを決めさせていただいています。

そして規約の最後には、ルールを定めた目的について書いてあります。 

「規約はお互いを縛るために作ったのではありません。
みなさんと快適な時間が過ごせるよう、できる限り柔軟に運用していきますよ・・・」

というような内容です。 

10年以上も教室をやっていると、ルールだけでは割り切れない、微妙なケースに遭遇することも少なからずあります。

そんなときでも、いろは教室では、ルールをガチガチのモノに変更する必要はありませんでした。

そうしてやって来れたことに感謝しています。 

・・・

ルールの大切さは理解した上で 

これから先、世の中がどのように変わっていっても、ルール以外のものを大切にする教室であり続けたいと願っています。


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難しいね [雑感]

風邪をひいてしまいました [もうやだ~(悲しい顔)]

と言っても先週のことで、今はだいぶよくなっているんですが。

先週の初めぐらいから、喉の痛みを感じてました。 

僕はいつも喉からやられるので、痛みを感じた時にはすぐに市販の風邪薬を飲んでいました。

でも、市販の薬って、あんまり効かないんですよね。

それで今回は金曜日に、サクッと耳鼻科通院。

お医者さんの出してくれる薬なら、すぐに効くだろうと期待していました。

でも薬が合わなかったようで、飲めども飲めども治る気配どころか、症状は悪化する一方でした。

日曜日もおとなしくしていたのですが、喉の痛みはピークに達しました。

明日は仕事だし、これじゃどうにもならん [ダッシュ(走り出すさま)] 

というわけで、夜8時を過ぎてから、某所にある救急医療センターへ行ってきました。

耳鼻咽喉科を受診したのですが、幸い待ち人数は4人ぐらい。
すぐに呼ばれるだろうと待っていました。

他に待っているのは、小さなお子さんがほとんど。

中耳炎なのかな、ずいぶん痛そうにして泣いている子もいれば、お父さんの膝の上でぐったりしている子、中学生ぐらいのお嬢さんは熱が高いのか、頭を押さえて辛そうにしています。

病気は誰しも辛いけど、子供の具合が悪いのは、それが他所の子であっても、見ていて切なくなります。

特にあの泣いている子、本当に痛そう。

僕も子供のころ、夜中に中耳炎になって、一晩中泣いた記憶があります。

あれは辛かった・・・。

とにかく、早く診察の順番が回ってくるといいのに・・・。

 

それにしても、次の人が全然呼ばれません。

もうだいぶ時間がたつんだけど・・・。 

どうしちゃったんだろう ???

 

待合室で耳を澄ましてみると、診察室の中からドクターと患者さんの会話が聞こえてきました。

・・・ 

う~む。

内容は書かないけど、それって夜のこの時間、救急センターで話さなきゃいけない内容なのか?

今度、別の機会じゃダメなのか? 

外では救急で来ている子供たちが待っているんだぞ?

と思わずにはいられないような、のんびりした会話がダラダラとされていました。

(と、少なくとも私は感じました)

それから数分して、ようやく次の患者さんが呼ばれました。

入れ替わりに出てきたのは、しっかりした大人の人。

見た目は元気そう。

い、いやね、その方だって本当は辛い症状を堪え忍んでいるのかもしれないし、僕だって傍から見れば元気そうに見えるのかもしれません。

その方の状況はわかりませんからね。 

だから迂闊なことを言ってはいけないと思います。

でも周りを見て、他に辛そうな人がいたら、明日で間に合うことは、今は後回しにして次の人に譲ってあげようとか、思わないかな~? 

本当は5個欲しいし、その権利もあるんだけど、3個にして残りは次の人に残しておこうっていう、そんな感じ。 

 

ん~。

でも、よくよく考えてみると、患者さんの側に責めを負わすのは違うような気もする。

患者がほかの患者に気を使って、診察時間を気にしなきゃならないっていうのは、気配りとしてはあっていいと思うけど、それを強いるようなのはハズレだな、きっと。

むしろ、診療する側が上手に状況をコントロールすればよかったのではないかな。

そんな気がしてきた。

看護師さんたちだって、廊下で待っている患者さんの様子はわかっていたのだし、 診察室の中だけでなくその周囲も含めて自分たちの管理するテリトリーだという意識があれば、もう少し色々と違ってくるのかも。

ごめん、さっきの人。ちょっと言い過ぎたかも。

 

などと、帰りの車の中でつらつら考えていたら、いつの間にか喉の痛みが和らいでいました。

さっきもらって飲んだ抗生剤が、さっそく効いたようです。 

翌日の授業は、何とか乗り切ることができました。 

 


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信じる力 [雑感]

去る6月16日のサッカー、コンフェデレーションズ杯・日本vsブラジル。
朝4時からの試合でしたが、頑張って起きて応援しました。
でも結果はご存じの通り、0ー3の完敗。
非常に残念な思いをしました。

今から5年前の前回ワールドカップ。
その舞台を前にして、当時の岡田武史監督がベスト4を目標に掲げたことに対し、本田圭佑選手は「ベスト4でなく、優勝を目指してもいいと思う」と発言しました。
世界の4強でさえ「そんな無茶な」という感じなのに、優勝なんて寝言みたいなことを言っているなあというのが、当時の私の感想でした。
きっと世間の人々のほとんどが、そう受け取っていたと思います。

あれから4年。

今回も本田選手は同じ言葉を口にしています。

「ワールドカップ優勝。」

けれども、前回と違うことがあります。

今回、本田選手だけでなく、それ以外の選手達もワールドカップ優勝を口にしているのです。

みんな、どうかしちゃったんだろう。
現実を見ようよ。
無理に決まってるじゃん。

私の周りにいる人たちも、多くはそう思っています。
そして、それは無理もないことだとは思います。

けれども私は、ワールドカップ優勝、決して無理ではないし、目指してほしいと今は思っています。
それも、かなり本気で。

無理だという人に、逆に訊きたいんです。

では、日本は今回のワールドカップで、どの辺を目標にしたらよいのですか、と。

1勝すること?
決勝トーナメントに進むこと?
ベスト8に入ること?

では、仮にベスト8に入るという目標を掲げたとして・・・

その目標を達成したとしたら(もちろん、これだってすごいことだけど)、その次の試合は、もう負けてもいいの?
そんなわけないですよね。
次の試合だって勝ちにいくし、万が一にでもそこで勝つことができたら、その次だって・・・。
だったら、なんで最初から全部勝つって言わないんだろう。
それって、負けた時に備えた言い訳だよね?


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「2番じゃだめなんですか?」

ばか、2番じゃだめなんだよ。
1番を目指して、精一杯頑張って、必死に頑張って、ようやく3番や5番になれるんだ。
1番を目指したからって、誰もが1番になれる訳じゃあない。
それこそ、1番になれるのはたったの一人だけだ。
1番を目指したあまたの人々は皆、その他大勢の敗者となり散っていくのだ。
ましてや、最初から2番を目指す奴なんて、10番にだって入れやしない。
覚悟が違うんだよ。

1つ間違いなく言えることは、レースで1番になった人は、1番を目指した人だということ。
そして、そのレースに参加する資格は、誰にでも、ある。
それなのに何故、戦う前に自ら頂上に挑むことを放棄しなければならないのだろう。

佐野元春は子どもの頃、両親の前で「将来ロックスターになりたい」という夢を語ったところ、実務家だったお父上から「華やかなスターになれるのはほんの一握りの人間だけだ。お前がなれるわけがないだろう」と言われた。
それを聞いていたお母様は「この子は絶対になれます」と言い切ったそうだ(今、手元に資料がないので正確な引用ではないけど)。
もしその時に彼が潔く諦めてしまっていたら、僕らは今、元春のステージで感動を味わうこともできなかったわけだ。

僕も今、個人的にある目標を持っている。
それが何かは書かないけれど、以前の自分だったら決して目指さなかったような、自分にしては高いハードル。
だけど、それを本気で目指してみようと思っている。

2006年のドイツワールド杯。
対ブラジル戦で限界を超えるまでひとり走り続けて、試合終了後にはピッチに倒れて動けなくなった中田英寿選手。
あのとき、彼の姿はとても孤独に見えました。

けれども2013年の今。
中田選手の真摯なプレーに影響を受けた本田選手が現れ、さらに本田選手によって化学反応を引き起こされ、香川選手や長友選手達もワールドカップ優勝を口にしています。
その意識がさらに周囲に伝播して、チーム全体、そしてそれを取り巻く応援団である私たちが、ワールドカップ優勝を「目指すこと」が当たり前になったとき、夢物語は現実になると信じています。

もう一度、確認しよう。

夢は、叶うことを信じた者だけが叶えることができる。
夢を叶えるのは、夢は叶うと信じる力だ。

 


明日の朝7時。
イタリア戦だ。
こんなに力一杯書いておいて、ボロ負けしたらカッコ悪いな~。

ま、誰も読んでないブログだからいいかwww
 

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